第3集

目         次
表題 地区 話者
博打地蔵 東町 佐々木 モミ
エンコの相撲 村上 照子
あいよい松の不思議 田之尻 長尾 善吉
馬に団栗(だんぎり)   灸(やいと) 川上 部落の人達
「嫁だんぼ」と       「りょうえん」さん 川上 原 武久
比留女さんの祟 高田 渡部 義貞
若宮さん(蛇神さん) 佐方 新田 愛子
大松と炭七十俵 江後 高野 正則
そもそも怪島と言うものは 佐方 高野 正則


博打地蔵
今はそのお地蔵さんも、もうここにはございません。
むかーし、ここにふたかかえもある大けな楠の木ぃが生えとりました。
ちょうどその真下に、ほんにちいさいお地蔵さんが座っておいでじゃったそうです。
そのお地蔵さん、みょうな興味がおありじゃったそうでございまして、いろんな願いを聞いてはくれるんですが、それがなんと、博打うちの頼みも聞いてくれる云うんで、いっつも若い遊び人が、そりゃあさいさい詣ってきよったそうです。
そのお地蔵さん、何処い行ったもんやら、いつの間にやらのうなっとって、その後い、 ”おじのっさん”がかわりに置いてあって、近所の人らが、かわるがわる詣っておりますが、ひょっとしたら、ゲンがえゝんで博打うちが一緒にどこぞい持っていったんかも知れません。
これは私が、とおぅの昔に、おばあさんから聞いた話じゃけんど・・・・・・
エンコの相撲  
七夕さんがすんだら”エンコ”が引っぱるけん泳ぎにいくな云うじゃろう。
他所の子がなーあ、家ぃいんで
「ひだるいひだるい、なんぞ食べるもんないか!」ゆうたらなあ、お母さんが
「なあんもないけんど」・・・・・なあ、
「お仏壇のままでも食べて行け。」ゆうたんじゃとい。
ほて、お仏壇のご飯を下ろしてくれてなあ、ほて、それを食べて、川い泳ぎにいたんじゃろ。
ほしたらエンコが出て来てなあ、ヘンコが「相撲取ろや。」ゆうけん相撲取った。
ほたらなーあ、なんぼがしたってエンコが負けるんでなあ、とうどう
「お前は仏様のまま食べとるけんもうあかん。」
ゆうてヘンコが引っこんだとい。
エンコは、「子供を引っぱっていんで尻をぬいちゃろう!!」・・・・と思とったのに、残念そうな顔で水ん中い、いんでしもたんじゃとい。
子供が勝ってエンコが負けた。 はーなーし・・・・・・
あいよい松の不思議
吉井の祖先さんに大けな松があっとろが、七かかえもある大けな雄松で、葉っぱが三本あるゆう珍しい松じゃった。    
その木ぃは、万方に張っとる根ぇも又太いもんで、道の真ん中まで張り出しとる根ぇが邪魔になって、荷車なんかはゴトゴトしまあって、なんぼにも通れたもんじゃあなかった。
 「どうかして根ぇだけ切らしてもろたらねや。」ゆうと、
「だれがほんなら切るのぞ!」ゆう事になると毎年話しするだーけで、だあれも
 「わしが切っとこわい。」
じゃのゆうもなないのよ。
その内にだれやらが、「元気者で気の強い人じゃったけん、あの人に頼んでみい。秀兄に頼んでみい。」
ゆうて、たのんだんよねや。
「わしゃあねや、どおぅぞそれだけはこらいてくれぇ。ほかの事はどがな事でもやるけんど、それだけはこらいてくれ。」ゆうて、ことわったんよ。
その年は、だーれもええやらざったもんで
「もう、しゃあないねや。そんなら根とだけ高なっても土もっとくか!」ゆうて、すましよったところ、正一っあんが、「何とかわしが拝んでもろて、わしが切っちゃろわい。」ゆうのでねえ
「ほたらあんたの自由にしてもろて、ちいとだけ。根とまでのけいでもかまわんけん、半分からこっちをやってくれるかな。」ゆうたら
「わしも、切れるか切れんかやってみよわい。」ゆうてね。
ちいと切りかけたら、「よい、わし、ちいと調子が悪い。今日はやめた。」ゆうて帰ってしもた。
あくる日、みいなが仕事行かずに待っとったら来んのよねや。次の日聞いたら
「わしゃあ、嘘じゃないぞ腹が痛かったんじゃ。しゃあけん、あれはもう誰れぇも切らされんぞ、あれはほっとけ。」ゆうて、切りかけにしたまま一切まがらなんだんよねえや。
その内にわしらの思っとるんが、"あいよいの”松に解かったもんか、枯れもせんのにひとりでにこけてしもて、今も吉井の先祖さんの前に太い根っこが残っとらいね。
どうにせ、なんの木ぃじゃてて、名ぁのある木ぃは切るもんじゃないぞ。
馬に団栗(だんぎり)灸(やいと
今頃ぁあんまりやらんが、昔は子供が夜泣きや癇癪なんかが出たらよう”やいと”(灸)をすえよったが、寝しょんべんなんかたれると、それこそ大けい”どんぐりやいと”(だんぎり)を背中いすえられよった。
としょりになると、体じゅうやいとだらけで、すえる場ぁがないぐらいすえとらい。
ほじゃけん他県(よそ)いなんか行ても「やいとの跡のある人間は伊予の人間じゃあ。」とすうぐに解かるらしい。
川上の西庄にやいと場ゆう所がある。
としょりに聞いたら、「そこの広場でやいとをすえよっやんじゃが、それが人間じゃなしに馬じゃけん面白かろがや。」
ゆうて笑いもって話してくれたんが、 昔ゃあ、こっから町まで三くゎい(回)も瓦焼の松葉木を馬に背負わして下りよったが、人間も足がくたぶれるけんど馬の方もくたぶれるとみえて、三くぁい目も済んで、荷ぃ下ろして戻る頃ぁ人間も馬も足ひこじるようにして戻りよったもんよ。
ほれでなんじゃわい。
池ノ原の獣医に米二合半持て行て、やいと場い来てもろて、すねこ(臑)と足首の真中あたりのとこい大けなやいとをすえてもらいよった。
太おぃどんぐりやいとい火ぃつけると馬もたまらんのじゃろのぅ、”ブヒヒーン”じゃのゆうて、後足で立ちゃがるやら暴れるやらで・・・・・。
なかにゃあ手綱を引き捩切ってじぶんちい逃げて帰る奴もおりよったわいや。
ところが翌日にゃあしゃあんと足上げもって歩くけん
「こりゃあ、やいとが利いたんぞよ。そじゃなかったら動いたらやいと跡が痛うて足上げよたんかもしらん!まあ、人間様にも利くんじゃけん馬にも利こぞいのおぅ。そのへんは馬に聞いてみな解からんけんど。」
ゆうて、ワハハ・・・・・・と笑た。 
ほして「子供もゆう事きかんのがおったらべさいつけて、”どんぐりやいと”の一つもすえてみい。そらようきく。昔はどこでも皆なやりよった。」ゆうて又笑た。
嫁だんぼ」と「りょうえん」さん
さあー、あれ、一時ようはやった流行神さんじゃが、まあ聞けや。
川上と中川の境の山の上のちょんまい祠に祀ったあんのが”りょうえんさん”で、祠の中い岩が二あつあって色褪せたまいだりがかゝっとらいね。
「詣って行くとええ縁が授かる。」いわれとって
「川上い行たら”りょうえんさん”に必ず詣らないかん。」ゆうぐらい有名じゃあったが、今はめったに詣りよる人に出逢うた事ぁないわいね。
どして、”りょうえんさん”ゆうかゆうたら、りょうえんさんの下の谷に深あいだんぼがあって、そのだんぼを”嫁だんぼ”ゆうて、地ぃの者ぁいゝよった。 昔。ある家に、ほんに心の優しいきれーな娘が居った。
親にしてみたら自慢の娘で、「だれぞええ男衆が居ったら世話してほしい。」ゆうて村人にゆうて廻っとった。
そんな或る日、娘に縁談話しが持ち上がった。ところが、娘には以前から村に好きな男衆が居って、末は夫婦になる約束がでけとったそうな。
そんな娘の気持ちを親は知ってか知らずか、仲人の持ってきた話を一も二もなし気に入ってしもた。
あんまり親も親戚も勧めるもんで、娘も気乗りせんまま心傷めとったが心の優しい娘じゃあったもんで、ええ断りもでけいでから泣く泣く承知したそうな。
承知はしたもんの家の者と口もきかず食事もせずに室い籠っておったが式も近い或る晩のこと、想い余った末に奥のだんぼい身を投げた。
ほたらその内、夫婦の約束しとった男衆も、娘の死んだんを死って、「わしも生きちゃおれん。」ゆうて、娘の後を追うてだんぼい飛び込んで死んでしもた。
ところが、なんぼしたって死体が上がらいで、親はごうたいがっとたそうなが
「あの二ぁ人は水の底で一緒になったんぞよ。」ゆうて、可哀想な二ぁ人を哀れんで経てたんが”りょうえん(良縁)さん”じゃと言われとらいね。
だんぼは、「嫁にいけいで身ぃ投げた。」ゆうんで、いつの間にか”嫁だんぼ”ゆうようになったそうな。
また、こがいにも言はれとらいね。
ある家に娘が嫁に来た。ところが姑と折り合いが悪うて、どうにもならないで近くのだんぼい身ぃ沈めたんじゃそうな。
そがなことがあってから、だんぼの端を通りよるとちょくちょく首が浮いてくるんで、村人はおとろしがって近寄らざった。
「これはあの娘の霊が浮かばれんのじゃ。」ゆうて山のとう(頂上)い祠を祀った。
それから不思議に首が出る事ぁないなったんじゃといね。
それからそのだんぼの事を”嫁だんぼ嫁だんぼ”ゆうようになったんじゃそうなが、その”嫁だんぼ”も今はコンクリートで固めてしもて、誰ぁれも”りょうえんさん”や”嫁だんぼ”の事ぁいわんようになってしもたわいね。
比留女さんの祟
わしが比留女さんの横の田ぁにおると、比留女さんの御利益をよう耳にすらいな。
「孫がシイコ(小便)落としてこまるんで、こゝいお願かけたら癒ったわいな。」とか
「子供がでけいで頼んだら元気な子ぉがでけた。」とか
「こゝら近在の女郎衆が詣って来て、下の病が癒ったわいな。」ゆうて、腰巻納めて帰るじゃの・・・・・
わしが子供の時分に、おじいから聞いた話でこんなんがあらいな。
昔むかし、比留女さんに代官がやって来て
「こゝに祀ったある金の鳥居や男のお道具を飾ったあるのがようない。はよ始末せい」ゆうて、そこら回りい聞こえよがしに大声で命令しよった。
そこで村のもんが、「始末せいてゝ昔からの慣わしじゃけん、そがな事したら罰があたるぞなもし。」ゆうても
「お上の命令じゃあ、かまんけんやれ。」ゆうんで、仕方なしに組みのもんが集って
「とうなったてわしらは知らんぞな。」いゝもって、そいでも念仏あげて、中のお道具をちょっぽし残して焼いてしもた。
「こそっと土ん中いでも隠しとくか!」ゆう話しも出るには出たんじゃが・・・・・・・
それから何日かのうちの事、代官が血相かえてやって来て
「川菖蒲のあるとこ知らんか!」ゆうんで教えちゃると、だいぶこと刈っていによったわい。
それからも再々菖蒲を刈りに来るもんじゃけん
「そなに菖蒲をなんすらな。」ゆうと
「あれからちとないして、チンチが痛なってどもならん。菖蒲を風呂に入れたらアクで癒るゆうこと聞いたんで、それで菖蒲がいるんじゃ。」ゆうので
「それみい罰があたったんじゃ。ええ気味じゃあ。ほっとけほっとけ。」ゆうてみいな(皆)知らん顔しとったが、おろおろしとんの見とったら可愛そうになって
「それよりか比留女さんを拝んだ方が早よ癒るぞなもし」ゆうたげたら、いなげぇな顔しもて
「ほたらそうしょうか!試してみよか!」ゆうて、奥方と二ぁ人が詣りよったが、その内に
「比留女さんのお陰で二ぁ人共ようなった。」ゆうて、奥方と一緒にお道具持って詣って来て
「こりたこりた。」いゝもて逃げるように帰ったんじゃそうな。
笑うに笑えん話じゃが、まあ、神さんや仏さんやなんかの気にいらん事ぁするもんじゃないぞな。
若宮さん(蛇神さん)
八幡さん(亀山八幡)の本殿の右側にねぇ、小さい瓦のお宮さんを祀っとんの知っとろがな。
あれはなぁ、おかげ頂いた人が一つづつあげて、十五余りぐらい祀っとるんですがね。
あれは”若宮さん”とか”蛇神さん”とかゆうんですが。
あれが私ら、まあ、母から聞いたんですけどねぇ、漁師がこの沖で網ぉ引いとったらその網ぃ大けい壺がかかって、漁師が蓋ぉあけてみるとその壺の中ぃ蛇がぎょうさんぐじゃまって入っとってね、漁師がたまげて又蓋ぉして海の中ぃほり込もうとすると、蛇のゆうことにねぇ、
「どぉうぞ助けて下さい、私らは昔佐方に棲んどったんですが、あまりに悪い事ぉしたんで神様に壺に入れられ海に投げ込まれました。もう二度と悪さはいたしません。」ゆう。
漁師はねぇ、「二度と悪させんのなら助けてやらい。」ゆうて、佐方の浜ぃ放してやったそうです。
すると蛇は、「お礼にええ事教えたげる。八幡さんに大松がありましょう!その松の下ぃお社作って祀って下さい。ほしたら、何でもかまんお願いしたら叶えてあげる。」ゆうと草の中ぃ消えたんじゃそうです。
母がねぇ、ようお願いしといては幟を持っていたりしよりました。
小さいお宮や幟はおかげ頂いた人が一つづつあげて、始まりは一つじゃったんが順々ふえて、今も赤や黄色の幟が立っとりまさい。
大松と炭七十俵
今はないなって知っとる人も少のうなったが、あの賀茂さんの新谷池ちゅう池の西側きの山の先のあいだにこんまい祠があるんよ。
あしこに、その昔大けな、ここら界隈の野間郷一番の大松があったんじゃ、大けな松が。
それをその、ある時の事、地元の人が、「蜂の子ぉ捕る」ゆうて、蜂を掘るのよねぇ、地蜂の巣ぅ取って食べるんよ。
おいしゅうて、昔の人は。・・・・ その蜂を掘んにいとったところが、煙でいぶす火ぃが入って、その松の木ぃの中が空になっとるもんじゃけん煙突になって、それい火ぃが入ってドンドン、ドンドン燃え出した。
ほて,それが七日七夜燃えにもえ、「もう、こりゃおおごとじゃが。」ゆうたて枝の枯れとるのが煙突になって、ドンドン、ドンドン、そっから煙が出るし、下は燃えるしして、さしもの大けな大けな松の木ぃも七日七夜さも燃えてもえてもえつきて、ほて倒れてしもた。
それい皆がジャアジャア水かけて火ぃを消したんじゃが、「枝はもうしょうがないけん」ゆうて、そこい炭焼き釜をこさいて炭を焼く事にした。
ほしたら、枝だけで炭が七十俵もとれたゆわいな。
そうよにおじいさんがいいよった。
そもそも怪島と言うものは
ついでじゃけども怪島の話しを・・・・。
この怪島の話しとゆうのは越智の市太郎さんゆうて、星浦(大西町)から、来た人じゃがな、それは、亀岡村へ来て、小学校の校長ぉ長年やっとったが、校長ぉやめて後には亀岡の村長もやった人じゃが、立派な人じゃったが、その人が、「昔話である時に。」ゆう事で話してくれたんじゃが、元々明治二十年に町村制をきめるときに、「怪島をどうするか?」ゆうので領地をきめるのに郡役所ぃ呼びだして色々ときめていきよった。
自訴のあがる土地はお上が「あゝせい、こうせい」ゆうんじゃが、自訴の上がらん小山なんかは草刈場で放っとった。
そがなけん怪島も放ったぁって、どおぅもしてなかった。
それとゆうのも、昔から佐方村と別府村とは往来が多ぅて兄弟村みたいなもんで、新しに村をこさえるゆうたら佐方と別府は当たり前のこと一緒になるんじゃろ思とった。
ところが五百軒を単位に東から取ってきよったら佐方と別府は一緒にする事が出来んなって、佐方は種村と一緒になって、早ゆうたら佐方と種は亀岡村とせにゃゆうし、別府は脇や星之浦とで小西村にせんといかんなって、地元の人が、「佐方と別府は兄弟村じゃけん。」いよったんが違うてしもて・・・・・・.
ところで怪島じゃが、町村制を施行すると区画を作る場合に、「さて、どっちのもんぞ。」ゆう事になったんじゃが、怪島は水軍時代から高仙城や無宗天城なんかと一緒に来島水軍の出城と皆知っとるもんじゃけんね、そうゆう関係で怪島も出城があったもんじゃけん、その、佐方の明見さんあたりから舟が出たりするし、連絡はするし行き来が佐方のもんじゃった。
それに、佐方の方が大庄屋を勤めたりする関係で禄高も、種、六百六十石、佐方、六百四十石、別府、六百二十石ちゅうような具合で、昔の禄高でもだいたい並んだ村じゃったもんで、高仙や無宗天の関係があるけん、怪島は早よゆうたら佐方が領有するかのように見えた。
その内、郡役所ぃ両方の戸長(総代)さんが呼び出されて色々聞かれたが、どっちも、「佐方のじゃ。」「イヤ、別府のじゃ」とかいゝよったが、その内に佐方の戸長さんが開口一番
「そもそも別府の怪島とゆうものは。」て、口を切ったら、
別府の戸長さんが、「いんま(今)佐方の戸長さんも、別府の怪島とゆうものは・・・・ゆうとろが、あれは元から別府に帰属しとるもんじゃけん。」と、こう、言い張って、とうどう負けてしもて
「別府の怪島は。」と、ゆうたところが喰いつかれ、佐方側が棒を伏せて、ほて、別府の怪島になったんじゃそうな。
口は災いのもと・・・・・・・。

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